大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡高等裁判所 昭和52年(ラ)89号 決定

抗告人

早良病院院長

武田誉久

右代理人弁護士

鶴田哲朗

相手方

日本チバガイギー株式会社

右代表者代表取締役

エツチ・エツチ・クノツブ

右代理人弁護士

赤松悌介

外一七名

右抗告人は、福岡地方裁判所が、同庁昭和四八年(ワ)第三九四号、国年(ワ)第六七九号、昭和四九年(ワ)第六六七号、昭和五二年(ワ)第一九九号、損害賠償請求事件について、昭和五二年八月一〇日なした文書提出を命ずる決定に対し、即時抗告を申立てた。よつて当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件抗告を棄却する。

理由

(抗告の趣旨及び理由)

本件抗告の趣旨は、「原決定を取消す。相手方の本件文書提出命令申立を却下する。」との裁判を求める、というのであり、抗告の理由は別紙(一)抗告状、同(二)抗告理由書〈略〉に記載のとおりである。

(当裁判所の判断)

一一件記録によると、本件損害賠償請求事件における原告らの請求原因の要旨は、「原告らはいずれもその疾病治療の過程において、相手方(被告)らの製造販売または輸入販売にかかる医薬品であるキノホルム剤を服用したためスモン(すなわち亜急性脊髄視神経症)に罹患した者(またはその相続人)であるが、右罹患は相手方(被告)らがキノホルム剤の人体に対する安全性について十分な調査、研究を怠たり、これを何ら確認しないまま、その製造販売、輸入販売を開始し、その後も人体に対する被害の発生を未然に防止すべき義務に違反し、右の調査、研究をなさず、危害防止の措置をとらないまま漫然その輸入・製造、販売を継続したことによつて生じたものであるから、相手方(被告)らに対し、その損害の賠償を求める。」というのであり、これに対し、相手方(被告)は、原告らのキノホルム剤の服用の事実、その服用とスモン症状発現との因果関係、並びに自己の過失を全面的に争つていることが明らかである。

而して、相手方の本件文書提出命令申立にかかる「立証すべき事実」は、「原告らの症状の経過、原告らに対するキノホルム剤投与の有無、キノホルム剤投与と腹部症状・神経症状との間の因果関係の存否、合併症の有無と現神経症状に与える影響の程度」である。

又原審が民事訴訟法第三一二条第三号前段、第三一四条の規定に基き抗告人に対して提出を命じた文書は、原告らの一部である越智義信、篠原万理子、高砂佳枝、山元典子の四名(以下単に原告四名という。)につき、その主張のスモン症状発現当時ないしはその後に、治療に当つた医師が作成した右各人の診療録である。

二そこで、本件各診療録が民事訴訟法第三一二条第三号前段の文書に該当するか否かについて検討する。

(一)  民事訴訟法第三一二条第三号前段にいう「挙証者の利益のために作成せられ」た文書とは、挙証者の権利、義務を発生させるために作成された文書または挙証者のため後日の証拠として作成された文書であつて、当該訴訟において挙証者の法的地位や権利、権限を立証しまたは基礎づけるものをいうと解すべきである。

(二)  ところで、民事訴訟法第三一二条以下の規定による文書提出義務は、裁判における証拠資料の必要と文書の所持者の文書提出によつて蒙る不利益とを一般的に比較衡量して一定の要件を設けたうえ、その要件に該当するときは、その文書の提出を拒むことができないものとして、裁判における真実発見に必要な書証を、特段の事情のない限り、できるだけ法廷に提出させて裁判所の判断の資料に供させ、もつて民事裁判の適正をはかるため、文書の所持者に課せられた公法上の義務である。

(三)  そして、医師法第二四条は、医師に対し診療した患者について遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載すること並びにこれを五年間保存することを義務づけ、同法第三三条はその違反に対しては罰金の刑罰を科することとしているが、右の医師の診療録の作成、保存義務は、医師に対して適正な診療行為をなさしめるための医療行政上の目的のほか、診療録が後日、各種行政上の証明行為の基本的資料となること並びに刑事裁判、民事裁判において重要な証拠資料となり、ときには不可欠な証拠となることから、その必要に供するための公益上の要請に基くものと解するのが相当である。

(四)  一般に診療録には、診療による所見ないし診断、投薬、注射、手術、その他の処置の内容とその結果あるいは経過などが具体的に記載されるものであり、法定の必要的記載事項の一部として医師法施行規則第二三条第二、第三号には「病名及び主要症状」「治療方法(処方及び処置)」が規定されていることからすると、本件各診療録には原告四名各人に対して医師が処方し服用させた薬剤名または薬剤の種類、その量、主要症状とその経過が診療の都度記載されていることが推認される。

(五)  而して診療課程において処方、投与された医薬品に関し、後日、その薬害をめぐつて患者と当該医薬品の製造、販売等をなした製薬企業との間にいわゆる薬害訴訟が生じた場合、その訴訟において当該患者の診療録が、当事者双方のために立証の用に供せられることも前示診療録の作成、保存義務の根拠となつた公益上の要請に含まれるものとして通常予想しうる範囲内にあるものといえるから、原審が抗告人に対して提出を命じた本件各診療録は、患者である原告らのためばかりでなく、被告である相手方のためにも、後日の証拠として作成された文書というを妨げない。

又本件訴訟においては前記のとおり原告らと被告(相手方)らとの間に、原告らのキノホルム剤服用の有無並びにその服用とスモン症状との因果関係等がまさに基本的な争点となつているのであるから、本件各診療録は、原告四名と被告(相手方)の双方にとつて重要な基礎的証拠となり、挙証者である被告(相手方)にとつても前記「立証すべき事実」を明らかにすることによつて自己と原告四名のスモン症状との関係すなわち法的地位を立証しまたは基礎づけるための証拠書類となるものといわねばならない。

(六)  そうすると、本件各診療録は、民事訴訟法第三一二条第三号前段の文書に該当するものである。

三次に抗告人について本件各診療録の提出義務を否定すべき特段の事情があるか否かについて検討する。

(一)  まず医師は診療に際し患者の私的秘密を知得する機会が多いから、その義務上知得した患者の秘密を守る義務を負つており、診療録の記載中、患者の病名、症状は性質上右の秘密に該当するものである。しかしながら本件訴訟においては、患者が原告となり、損害賠償請求権の発生を基礎づける主張事実の一部として自己の秘密である病名、症状を開示して相手方(被告)に損害賠償を求めているのであるから、本件各診療録に関しては抗告人の守秘義務違反の問題は発生しないものということができる。

(二)  ただし、本件各診療録に本件スモン症状と何らの関係もなく、しかも患者の秘密に属する事項の記載があり、このことが審訊等において主張、疏明されたときは、医師等の証言拒絶権の行使の場合に準じ、当該部分に限り文書の提出を拒むことができると解すべきであるが、本件においては原審における審訊に際しても、また本件抗告理由中にも本件各診断書の記載について抗告人から右の点の特段の務張はなされていない。

(三)  抗告人は、「本件の如く製薬会社等の第三者に対して、民事訴訟法第三一二条第三号前段を理由に診療録の提出命令が認められるとすれば、診療録が第三者の目に触れる虞れが絶えず医師と患者間に意識されることになり、医師に対する患者の秘密保持の期待が存在し得なくなる。従つて診療上如何に重要な事項であつても、診療録に記載され患者の同意なしに第三者に知られることを恐れるために、患者から医師に告知されないといつた事態が当然予想される。かくては一般に適正な診療行為の確保が不可能となり、医療の荒廃をきたし重大な公益が侵害される。」と主張するけれども、前示のとおり本件においては患者が被害者として自己の症状等を主張し相手方を加害者としてこれに対し損害の賠償を求めて訴を提起しているものであり、自ら司法的救済を求めて民事裁判を係属させる以上、自己の診療録が法定の要件に該当するとき、これが被告の申立により真実発見のため証拠として法廷に顕出され加害者としての被告の目に触れる機会のあることも当然予期されるところであり、またこれを受忍すべき性質のものであつて、本件の如き事案において文書提出命令が発せられることによつて、ひいては医療の荒廃を来たし重大な公益が侵害されるとの抗告人の所論は、当裁判所のにわかに首肯し難いところである。

(四)  その外本件において抗告人につき本件各診療録の提出義務を否定すべき特段の事情はみられない。

四よつて、抗告人に対して本件各診療録の提出を命じた原決定は相当であり、本件抗告は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり決定する。

(佐藤秀 篠原曜彦 森林稔)

別紙(一) 抗告状〈略〉

別紙(二) 抗告理由書〈略〉

〈参考・原決定〉

申立人

日本チバガイギー株式会社

右代表者

エツチ・エツチ・クノツブ

右訴訟代理人

赤松悌介

外一七名

相手方

早良病院院長

武田誉久

右申立人から、当庁昭和四八年(ワ)第三九四号、国年(ワ)第六七九号、昭和四九年(ワ)第六六七号、昭和五二年(ワ)第一九九号損害賠償請求事件について、民事訴訟法第三一二条三号により相手方に対し文書提出命令の申立がなされたが、当裁判所は右申立が理由があると認めるので、相手方を審訊のうえ、次のとおり決定する。

申立人側訴訟代理人

赤松悌介外一七名

相手方側訴訟代理人

〔主文〕相手方に対し、福岡地方裁判所に別紙目録記載の文書の提出を命ずる。

(福岡地方裁判所第二民事部)

早良病院

一、提出を求める文書の表示

左記各患者について左記各期間に関する記載のある診療録(カルテ)。

二、患者の表示

(1) 越智義信(大正一三年三月一六日生)

昭和四四年九月一日頃より

昭和五二年二月一日頃まで

(2) 篠原萬理子(大正一一年一〇月三日生)

昭和四二年二月二〇日頃より

昭和四九年三月三一日頃まで

(3) 高砂佳枝(昭和二三年一月二二日生)

昭和四四年一〇月頃より

昭和四五年一月頃まで

(4) 山元典子(昭和一三年二月一八日生)

昭和四四年八月一三日頃より

昭和四五年九月頃まで

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例